《23》 救急車が呼ばれ、そして病院へ
- 樋口彩夏
- 2013年7月1日
- 読了時間: 4分
8月4日 月曜日 のつづき、その2
限界ギリギリの身体でステージに立ち 演奏も無事におわり、解散。
演奏中の記憶は鮮明に残っているのに、どうやって家に帰ったのか、後片付けはしたのかなど、まったく思い出せません。
家に着いた私は、ベッドに倒れ込み 早い時間から眠っていました。
その日の夜、20時ごろでしょうか?
いつも以上の激しい痛みとしびれ、苦痛にゆがんだ自分の叫び声で目を覚まします。
リビングでテレビを観ていた母と弟が駆け寄ってきました。
その異常な痛がりようを見て、「救急車 呼ぼうか? 呼んでもいい? ・・・呼ぶからね。」と、119のダイヤルをまわす母。
母は、私が痛みを押して部活をしていたことを一番よく知っています。
私の同意がなくても 救急車を呼んでいたのでしょうが、“本番もひとつ終わったし、もういいよね・・・?”と、今までの気持ちを汲んで、一応 意思を確認してくれました。
痛みに苦しみながらも、そんな母の気遣いをうれしく思ったのをよく覚えています。
“やるだけのことはやったんだから、もういいよね。”と、私もそれに応えるように、黙ってうなずきました。
このとき 私は、どうなるか分からないけれど これから起こることに備えて、ある程度の覚悟をしました。
しばらくするとサイレンが聞こえてきて、その音は マンションの前で止まりました。
救急車が到着したのです。
慌ただしい動きの中でも 冷静な表情をくずさない救急隊員が 2名やってきました。
母は状況を尋ねられ、弟はその様子を心配そうに見ています。
私はというと、尋常じゃない痛みがつづいて痛がっていましたが、頭の中は不思議なくらい落ち着いていました。
痛みはじめて数分たったあたりから 徐々にまわりの音が遠ざかっていき、目に映るものすべてがスローモーションのように見えていたのです。
布状の担架で運ばれ ハンモックのような感じでエレベーターに乗り、エントランスに準備されていたストレッチャー(簡易ベッド・寝台)に乗せられました。
救急隊員がやさしい言葉をかけてくれる中、マンションの廊下の天井を見つめながら 私は想います———。
“きっと、当分の間、ここには戻れないんだろうな・・・。”
これから起こることを悟ったように 辺りをぐるりと見渡し、目に映るものすべてを記憶にとどめておこうとする私がそこにいました。
ピーポー、ピーポー・・・・・・ピーポー。
運ばれた先は、2日前に診察を受け、次の日MRIを撮ることになっていた 近所の救急指定病院。
救急車を呼んだ経緯とあわせて、明日 外来でMRIの予約が入っていることを 母が伝えます。
当直の医師の判断で、ちょうど検査室の空いていたCTを撮り、そのまま一晩 救命救急センターのベッドに泊まることになりました。
CTを撮りおえ、ベッドの横に立つ先生と話をしているところにCTの画像が届きます。
それを診た先生の表情が 一瞬でしたが、確実に険しくなったのを 私は見逃しませんでした。
救急車へ向かう途中、なんとなく抱いた嫌な予感が、確信に変わった瞬間でもあります。
2003年というと、今から10年前。
小泉政権で、国営だった郵政事業が民営化された年 というのが、まず思い浮かびました。
歌は、SMAPの「世界にひとつだけの花」が流行っていて、ドラマは「ウォーター・ボーイズ」を観ていたかな。
本は、養老孟司さんの「バカの壁」が大ベストセラーに。
平成の大横綱・貴乃花が引退し、朝青龍が横綱に昇進したことも印象に残っています。
流行語には、元衆議院議員・野中広務氏の「毒まんじゅう」やお笑い芸人・テツandトモの「なんでだろう~」などがあり、イラク戦争開戦や新種の感染症・SARSが大流行した年でもあります。
みなさんは、何をされていましたか? どんな年だったのでしょうか?
2003年8月4日、私は その日を境に 寝たきりの生活に。
もう 歩くことはおろか、立つことも、足を動かすことさえもできなくなっていました。
ほんの数時間前までマーチングをしていた、どこにでもいる 普通の中学生だったはずなのに・・・。
その身に起こったことは、あまりにも突然で酷なできごとでした。
つづく・・・。

イラスト:ふくいのりこ
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