《149》14歳で小児がんに 私が告知を受けてよかった理由
- 樋口彩夏
- 2020年12月22日
- 読了時間: 7分
更新日:2024年5月23日
2人に1人が、がんになる時代。「がんは治る時代へ」などと言われはじめて久しいですが、いつの時代も「がんと告知」はデ リケートな問題です。いくら治癒率が上が っているとはいえ、生死の境に立たされることに変わりはありません。本人も家族も、周囲の人も、それぞれの葛藤があるはずです。告知に対しては根深く賛否両論分かれる中で、これまでの闘病 体験を踏まえて、私なりの答えを記します。
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「やってしまった・・・」。10月5日、再び骨盤を傷めてしまった私は、今年2度目の安静加療をすることになりました。2月の骨盤骨折から6月に仕事へ復帰したものの、9月はリンパ浮腫の入院治療で1カ月休んでしまいました。よりによって、その復帰初日なん て、タイミングが悪すぎます。
私の骨盤は、とてももろく、折れやすいのが特徴です。中学生の時に患ったユーイング肉腫(小児がん)の治療で照射した重粒子線による晩期合併症ですが、ただ座っている、たったそれだけの負荷の積み重ねに耐えきれずに折れてしまいます。手術で補強することもできず、骨がくっつくことも望めないので、急性期の炎症が引くまで安静にし、徐々に座り始めていくという、アナログな方法が唯一の最適解です。
一定期間の安静を要する骨盤骨折は、今回で4回目。転んで尻もちをついた覚えもなければ、ぶつけてもいない、大きな衝撃があった記憶もないし、例によって折れる要因に見当もつきません。強いて挙げるとすれば、過去に1度だけ――。
引き金となった動作は、本を本棚に戻す時でした。A4サイズで背幅2、3センチ厚の少し重めの本を右斜め前方に右手1本で戻そうとした時のことです。右ひじをつくなり、左腕で体幹を支えるなりの対策を講じるべきだったかと頭をよぎった時には、もう手遅れでした。ピキッという嫌な感触に触れたのは、本が本棚に届く直前です。
惨めなとき、自分の支えは
これまでは、日常の中で突然折れたことに気付かされるパターンしかなかったので、気をつけるといっても、漠然とした注意を払うことしかできませんでした。もちろん日々骨盤に優しい生活を心がけてはいたけれど、骨折が自分の動作と直接的にリンクしていないので、どこかひとごとのような距離感を感じていたのです。
しかし、その時ばかりは、こんなことで折れてしまう自分の身体が惨めで、情けなくて ――。治療なんてしなければ、今頃こんな思いをすることもなかったのに・・・と、ネガ ティブの暗雲が立ち込めました。
そんな時でも闇にのみ込まれずにすんでいるのは、きちんと病気の告知を受け、治療などの意思決定を自ら行った事実が支えになっているように思います。
振り返ると、私が小児がんを発病したのは2003年でした。今では「がん」でも本人へ告知することが一般的になってきていますが、かつては患者本人への告知がタブー視され、家族だけにしか伝えないことも珍しくなかったようです。患者が子どもとなれば、なおさら。同時期に発症した友人の中にも、偽りの病名でごまかされていたケースをよく耳にしました。
真実を知りたかった14歳の私
けれども、当時14歳の私は、自身に起こっている真実を知りたいと強く望んでいました。それを両親や主治医が理解し尊重してくれたため、告知をはじめ、治療の説明を受けたり、方針を決めたりする重要な話が私抜きでされることはありませんでした。
よくありがちな、両親だけが先に説明を受け、後から本人に話すというのも嫌で、「なんで一緒に聞いちゃいけないの? 2回に分ける意味が分からないし、自分のことを知るのは当然でしょ?」と言って聞かないのだから、「大人たち」からすれば、だいぶ面倒な患者だろうなというのは当時から自覚していました。
それでも譲れないことだったのです。治療のプロトコルはもちろん、薬剤の名前や量、作用・副作用、検査の数値・画像データの見方や考察など、自分の病気に関しては専門家とそれなりに話のできる状態程度には理解していたくらいに――。
命の保証さえも・・・
骨盤という重要臓器がひしめく場所にできた拳大の腫瘍(しゅよう)と戦う作戦は、 まず化学療法で腫瘍をたたき、小さくなったところで手術をする算段でした。一時は小さくなった腫瘍が抗がん剤にあらがって大きくなりはじめると、急いで手術の段取りが組まれます。説明を受けると、骨盤ごと取り除くような大掛かりなもので、一生寝たきりは確実な上、命の保証もままならないということでした。どうやら、他に選択の余地はないようです。
けれども、あまりのリスクにおいそれと容認できなかった父は、着々とオペの準備が進む中、重粒子線治療を見つけてきたのでした。当時は、先進医療に認められて間もない頃だったので、保険収載もされておらず、大学病院の先生でも知らない方がほとんどでした。
そこで父は、私の検査データ一式を携え国内唯一の重粒子線治療ができる病院を訪れます。今でこそセカンドオピニオンも一般的になっていますが、当時は帰る場所がなくなるかもしれない不安と背中合わせ・・・。それでも私たち家族は、私にとっての最良の選択をするため、その不安に目をつぶることにしました。父は公平な視点で、私にオペと重粒子線の詳細を説明してくれました。化学療法を担っていた小児科やオペを担当する整形外科、自分たち(両親)の意見なども伝えた上で、こう言ってくれたのです。「どちらを選んでもいい。彩夏が選んだ道を全力でバックアップするから」
「命と座位は保証する」
重粒子線治療を受ける決断をしたのは、他の誰でもなく私自身だったのです。決め手となったのは、重粒子線病院の、ある医師の言葉でした。「命と座位は保証する」と断言した迷いのない姿勢に、この先生に委ねてみようと思えたのです。駆け出しの治療ゆえに症例も少なく、後遺症に関して未知数であることは覚悟の上での決断でした。
あれから17年、再発も転移もすることなく、生存しています。たまに寝たきりになることはあるけれど、ちゃんと座ることもできています。「命と座位は保証する」――。その先生は、言葉通りの結果を示してくれました。
実際には、骨盤を骨折し安静加療を強いられるたび、晩期合併症が増えるたびに、一瞬「治療しなきゃよかった」と思ってしまいます。でも、その後に「自分で決めたことだから」と、納得感を持って向き合えているのです。
治療後の人生を歩くために
もし、私の置かれている現状が他の誰かの決断の先にあるものだとしたら、自分の中で消化しきれなくなった時、その誰かを責めてしまうかもしれません。治療後の長い人生を自分の足で歩いていくためには、その「納得感」が重要なように思います。
子どもとはいえ意思の疎通ができる年齢なら、その子の理解に応じて話してあげれば、きっと伝わるはずです。大人の用意した結論に誘導するのではなく、本人がどう感じているのか、どうありたいのか等々、丁寧に聞き取りながら、一緒に着地点を探していくことが周囲の大人たちに求められているのではないでしょうか。
もし、小児がんを発症した子に告知することをためらっている人がいたら、ぜひ本人を信じて告知をしてみてください。子どもたちは大人が思っているよりも、強くたくましく受け止めてくれると思います。

イラスト・ふくいのりこ
<アピタル:彩夏の〝みんなに笑顔を〟>
http://www.asahi.com/apital/column/ayaka/ (アピタル・樋口彩夏)
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