《39》 そこにあったカタチある答え
- 樋口彩夏
- 2013年11月18日
- 読了時間: 3分
車いす以外の移動手段を求めてたどり着いたのは、手でこぐ自転車・ハンドバイクだった。
福岡県で活動をしているクラブの試乗会。
そこにいたのは、30代後半〜50代の男性が4人。
全員、脊髄損傷(脊損)で、両下肢麻痺、車いすで生活をされている方でした。
でも、ハンドバイクで颯爽とグラウンドを走る姿は、とっても元気そうで健康そのもの!
“車いすに乗っていても、元気な人っているんだ――”
彼らに出会って、最初に抱いた感想はそれだった。
それまで私の生活の中には、街でも学校でも、車いすに乗った人を見る機会はほとんどありませんでした。
見かけたとしても、お年を召した方が長距離歩行の補助として、ケガをした人が一時的に車いすに乗っている程度。
病院に行けば車いすに乗った人も多かったけれど、そこで見る人は私も含めて皆、元気がありません。
“だれかに介助をしてもらわなければ、普通の生活もままならない”
車いすで生活をする人に対して、私はそんなイメージを持っていました。
しかし、目の前にいる彼らは、そのイメージとかけ離れていた。
仕事があって趣味があって、好きな服を着て、自由に動いて――。
自信に満ちあふれた表情に、はじける笑顔。
当時の私には想像することさえできなかった「ごく普通の生活」を、彼らは謳歌していたのです。
その姿は、とてもまぶしく感じられました。
思えば、車いすに乗っている元気な人を見たのは、そのときがはじめて。
「車いすでも、“普通”の生活ができる!」
それを体現する彼らの存在を知ったことで、うつうつとした生活に一筋の光が差したような気がした。
ありふれた言葉だけれど「希望を与えてくれた」、そんな出会いだったのです。
そして、彼らとの会話がすすむ中で、私の抱えていた悩みは、たちまち晴れていった。
同じような障害をかかえる者同士が理解し合うのに、多くの言葉は必要なかったのです。
当時の私は、病気の治療にともなう副作用で体調をくずし、入退院をくり返していました。
高校も最後の学年を前に休学せざるを得なくなり、3年が経とうとしていた。
その間というのは、気持ちに身体がついてこないもどかしさから、精神的に病んでいた時期でもあります。
それと同時に、そんな自分にも嫌気がさし、どうにかしたい!と、もがいていたのも、また事実。
目下の悩みは、排泄管理や車いす生活での諸問題。
病気や治療にともなう後遺症とはいえ、それは脊損とほぼ共通するものでありました。
それを、小児がん関係の人に理解してもらうのは、難しかった。
しかし、脊損と共通することを知ったのは、今から3年前のハンドバイクに試乗した日。
――すでに発病から7年が経っていた。
その7年の間、私は孤独でした。
もちろん、抗がん剤や移植に関する悩みは、当然のようにあった。
でも、悩みの大半を占めていたのは、がんに関することではなく、身体的な障害にともなうものだったのです。
当時の主な交友関係は、発病前の健康な人たちか、小児がん関係の人。
障害に関する悩みは、そのどちらとも共有することができませんでした。
それでも、理解しようとしてくれる人の存在・気持ちは、素直にうれしかった。
けれど、実際問題、障害があることで生活に困っていた私は、カタチのある答えがほしかった——。
そんなときに出会った、脊損の人たち。
私にとって彼らが、当面の目標となり、憧れの存在になったのは、必然といえるかもしれません。
それまで、私の中には、2人のわたしがいたように思う。
“まっすぐ生きたいと望む、わたし”と“障害を言い訳に逃げている、わたし”。
いつの日からか、自分というものをどこかに置き去りにしていた気がする。
脊損の彼らとの出会いは、再び、樋口彩夏として歩きはじめるきっかけとなる大きな出会いでした。

イラスト:ふくいのりこ
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