《40》 神様が一つだけ願いをかなえてくれるなら……
- 樋口彩夏
- 2013年11月27日
- 読了時間: 4分
私は下半身が麻痺しているために歩くことができず、車いすで生活をしています。
それは、小児がん(ユーイング肉腫)によって、脊髄が傷ついたことに因ります。
小児がん患者として、車いすで生活をする障害者として。
それぞれの立場での悩みがありました。
そんな私の悩みは、単純明快。
総じて言うならば、“普通の生活をおくりたい。”――ただ、それだけでした。
でも、その内訳は、人が生きていく上で根幹をなすものだけに難しい。
とりわけ、頭をかかえたのは下記の2つ。
【 脊 損 】排泄(排尿・排便)管理
【小児がん】治療にともなう、いろいろ
「脊髄損傷関係」と「小児がん関係」、ひとつずつ整理してみたいと思います。
まずは、脊髄を損傷したことに因る、排泄障害について。
とくに、排泄管理は大きな課題でした。1番!と言ってもいいかもしれません。
もし神様が、ひとつだけ、自分に関する願いをかなえてくれるとしたら・・・。
あなたは何を願いますか?
私はきっと、こう願うことでしょう。 ――“排泄障害を治してほしい”
もう一度、自分の足で歩きたい!というのも捨てがたいけれど、やはり排泄障害が優勢。
私の場合、腫瘍(がん)が脊髄神経を食べたおかげで、排尿も排便も自力ですることができなくなりました。
でも、それは、発病してすぐではなく、治療が終わって2、3年が経った16歳くらいのこと。
長い入院治療を終えて、高校生活も軌道にのってきた時期でした。
排泄とは、一日に数回、意識せずともくり返される、生理現象です。
ここで、排泄の手順を考えてみましょう。

「ためて、前兆があって、我慢し、排泄をする」
普段、意識することはないだろうけれど、排泄をするためには、これだけのプロセスを経ているのです。
この作業がうまくできないとなると、どうなるか想像できますか?
排泄機能が麻痺をするということは、尿意もなければ便意もない。
自らの意思で、排出したり、我慢したりすることもできない状態です。
「出せない」ことに関して、排尿時は、カテーテルという細い管を使うことで補います。
「我慢できない」ことについては、どうしようもないのが現状です。
そもそも、「したい」という感覚がないので、我慢のしようもありません。
水分をたくさんとったり、ちょっとした体調の変化で、トイレの間隔がせまくなることもあると思います。
車いすで生活をしていると、使えるお手洗いがないなど、不測の事態も多くあります。
そんなときは、言うことを聞いてくれない膀胱を前に、漏らしてしまう・・・。
しかも、腰から下の皮膚感覚もないものだから、漏れていることにすら気がつかない。
赤ちゃんでさえ、漏らせば不快を感じ、泣いて訴えます。
言わば、それ以下。
その惨めさ、情けなさといったら、ありません。
ある程度の歳をかさねてからの状況であれば、まだ諦めもつきます。
漏らしたうえに、そのことにすら気がつかない、私。
その屈辱的な状況を、高校生という多感な時期に受け止めるには、相当の葛藤がありました。
病気の治療中には、あれだけ学校へ行くことを望んでいたにもかかわらず、外に出るのも億劫になっていった。
“こんな身体になってまで、生きていたくない――”
そんなことを、当時は本気で思っていました。
今では、日常生活に困らないくらいの管理はついているので、外で漏れることはありません。
定期的に“トイレの日”をつくって、家にこもることにしています。
その際、漏れていることが分かると、テンションがた落ち。
一瞬で、人が変わったようにブルーな気分になってしまいます。
これは、排尿・排便、両方にいえること。
自他ともに、見た目に分かりやすい障害へ目がいきがちです。
排泄障害と聞いても、はじめはピンときませんでした。
しかし、排泄管理に支障があるということは、人間としての尊厳にもつながる深い問題だった。
これを、いかにして補うかによって、生活のすべてが左右される、ということなのです。

イラスト:ふくいのりこ
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