《144》骨盤骨折の攻略本を手に 小児がん患者の支えになりたい
- 樋口彩夏
- 2020年7月27日
- 読了時間: 6分
更新日:2024年5月18日
2月末以来、5カ月ぶりのコラムです。世間がコロナ一色となる少し前、私は骨盤を骨折し、一足早く「ステイホーム」に突入していました。仕事に復帰したのは、6月でした。ずっと家にいるので、コロナ報道にも実感が持てず、外に出られるようにな った時には、若干の浦島太郎状態でし た。ガランとした街に立って初めて、大変なことが起こっているのだと、自分事に感じられたのです。まだ、もうしばらくは、 我慢や工夫が必要なのでしょう。当事者意識をもって新しい生活様式を受け入れつつ、生活の彩りを取り戻していきたいものです。

イラスト・ふくいのりこ
( 新型コロナウイルス の流行する中で、連載の更新を見合わせておりました:編集部)
一難去ってまた一難とは、まさにこういう状況を言うのでしょう。昨年は、リンパ浮腫にはじまり、尿道のびらん、再びリンパ浮腫と、入院のオンパレードでした。年明けから仕事にも復帰し、ようやく落ち着きを取り戻したかと思った矢先に、異変は訪れたのです。
仙骨部に「ピキッ」という明らかな違和感が生じたのは、2月9日夜のことでした。瞬間的に過去の経験と照らし合わせ、完全にヤバいやつだと確信します。たぶん、いや、ほぼほぼ折れていることを――。
中学生の頃に患ったユーイング肉腫(小児がん)の晩期合併症です。重粒子線治療でもろくなった私の仙骨は、何げない日常動作の負荷が積み重なることに耐えきれず、いとも簡単に折れてしまいます。今回も、ひとまず1カ月半のベッド上安静を強いられました。
このように、ある程度の安静期間を要する骨折は3回目です。2014年、17年、20年。 ほぼ3年周期なんだなあと、これを書きながら気づきました。
振り返ってみると、1回目は初めてのことに戸惑い、心身ともにダメージは大きかったように思います。2回目は、身体的なことよりも、精神的につらかったのが印象的でした。この時までは、度重なる骨折を受け止めきれていなかったのでしょう。むちゃをしているわけでもない、普通の生活さえ分断されてしまう、やるせなさ。突然、寝たきりの生活に引き戻される恐怖。いつになったら座れるのか、終わりの読めないトンネルで葛藤する私がいました。
トンネルで葛藤していた私
しかし、今回は、そのどれとも違います。うまく言い表せないけれど、すべてが自然だったのです。例えるなら、「攻略本を手にしたゲーム少年」――。
「攻略本」のきっかけは、一昨年の冬。重粒子線専門病院で行った定期検査でした。治療後、数年は千葉まで年に数回行っていましたが、無事に寛解も迎え頻度は減り、数年ぶりの検査入院です。医師との面談は、CTとMRIの画像を一緒に見ながら行われます。
地元の主治医いわく「彩夏ちゃんのMRIは、ぐちゃぐちゃで診づらい」らしく、久留米でも千葉でも、読影の中心はもっぱらCT。その上、パッと見、「どこもかしこも折れ ているように見える」とも言わしめる私の仙骨は、読影にも熟練の目が必要です。
I先生「再発とかはないんだけどねー。骨がね・・・。もう、ねえ・・・」
わたし「実は、2014年、17年に折れて、それぞれ数カ月、寝たきりでした。(当時の骨折箇所がわかるCT画像をスマホで見せる)」
I先生「(今回のCT画像を指して)あー、ここと、これだ。こればかりは、しょうがないんだよね......。でも、2回じゃないよ。ここも、ここも。あ、これも。これと、これと、これと......」
わたし「......ッ!!?」
重粒子線を照射した14歳から当時まで15年。仙骨部にさまざまな違和感を感じてきたにもかかわらず、その経験値を生かしきれていませんでした。この痛みの種類でこの程度だと、治るまでにあのくらいの期間がかかったから、今回は・・・といった具合に、おぼ ろげな相関関係しか描けず、主治医も私も手探りで向き合っていくことしかできなかったのです。
骨折が2回だけじゃないことに驚く一方、無数の「これとこれ」のすべてに思い当たる節がありました。ひとつずつ、CT画像とリンクする位置を骨盤模型で解説してもらうと、これまでに感じてきた大小さまざまな違和感の中でも、大きめの違和感と完全一致。「なにか、おかしい」と思いながらも、判断指標がないために、あいまいにやり過ごしてきたものが、骨折だったと気づかされたのです。私が「攻略本」を手にした瞬間でした。
危険な痛み、そうでない痛み
一連の会話を経て、危険な痛みとそうでない痛みの線引きが明確になったのは、とても大きな収穫でした。きっと、私にしか分からない感覚的なことなのでしょう。痛みから状態を判別する勘が研ぎ澄まされたというか、痛みに対する解像度が上がったというか・・・。一瞬で、もやが晴れたような思いです。
それ以降、たびたび訪れる違和感にも、迷うことなく、ふるいをかけることができました。回復に要する時間に見当をつけるのも、格段に精度が上がったことを実感しています。そして、「攻略本」が最大の効果をもたらしたのは、今回です。あくまでも推測ですが、1回目や2回目の骨折と比較すると、おそらく1カ月安静した後くらいの状態で気づけたように思います。ヤバいと思った瞬間から、安静臥床(がしょう)を徹底しました。そのかいあってか、回復の過程は、今までになく安定しています。初動がよかったと、ひそかに自分を褒めています。
なぜ、こんなにも、手探りなのかと言えば、症例が少ないからに他なりません。私が治療を受けた病院は、医療用として世界で最初に重粒子線治療施設をもち、今では1万を超 える世界最多の治療実績を誇っています。ウェブサイトによると、1996年から2018年までの22年間で、骨軟部腫瘍 (しゅよう)の症例は1212件。そのうち、20歳以下の体幹部骨肉腫は26人。5年生存率は63%とあるので、26人すべてが生存しているわけではありません。
体幹と言っても幅は広く、仙骨に限定すると、もっと少なくなるのは言うまでもありません。また、この数字は骨肉腫なので、それよりも発症率の低い(約4分の1)ユーイング肉腫となると、いったい何人の同志がいるのでしょうか。
ひとつ壁にぶつかるごとに、努めて前向きに対応はしていても、ときには、心細くなるときだって、私にもあります。「攻略本」で迷いは減ったとはいえ、やっぱり、「みんなは、どうしているのだろう」という思いは拭えません。
しかし、こうして症例を積み重ねていくことでしか、たどり着けない答えもあります。重粒子線治療によって、私の命は救われました。その恩返しとして、これからも検査データを提供しつづけるつもりです。私の経験が症例のひとつとして、これから治療をする人の支えにつながりますように。つらい安静臥床も、有意義な辛抱に変わる日が来ることを信じています。
(アピタル・樋口彩夏)
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