《56》 考えれば考えるほど、むずかしい問題
- 樋口彩夏
- 2014年4月2日
- 読了時間: 4分
すっかり春らしい陽気になってきました。
いつの間にか、近所の桜が満開になっていて、びっくり!
いよいよ、4月。新年度ですね。
別れがあれば、出会いもある――。
一日一日を大切に積み重ねていきたいものです。
さて、もうすこし、障害者スポーツについて考えてみたいと思います。
《54》でオリンピックとパラリンピックの統合、《55》で障害者スポーツの放送が少ない理由について、思うところを書きました。
2つのコラムと最近の出来事をきっかけに、いくつか疑問に思ったことがあります。
あまりにもスポーツに疎いので、結論は出ませんでした。
かなりグダグダですが考察の一部を挙げるので、みなさんも一緒に考えてみてください。
五輪とパラリンピックの統合、ひとつの大会にするだけでいいの?
2つのスポーツ大会は、健常者と障害者、それぞれ別々に行なわれています。
それを、1つの大会に統合してもいいのでは?
お互いが競うのには無理があるから、種目として、健常者・障害者を分ければいいのではないだろうか、と書いたのは私です。
しかし、その裏には迷いがありました。
オスカー・ピストリウスのように、障害者でありながら五輪の基準をも満たし、対等に競い合った事実があるからです。
健常者・障害者の隔てなく競ってこそ、本当の統合ではないだろうか、という問いです。
私の中では、両者が「競える」に40パーセント、「競えない」に60パーセントの割合で分かれています。
人生の先輩である、障害者プロレスラー兼プロハンドサイクリストは、言いました。
“「競える」ようにならなければいけない。”
ふむふむ、それも一理あるように思います。
そのためには、障害者スポーツの技術向上が不可欠でしょう。
これに関しては、他国と比べて公的支援がいちじるしく少ない状況を考えたら、十分過ぎる、という話も聞きます。
今以上の成果を出すためには、国費を投じて取り組むしかないだろうというのが、外から見ていて思うことです。
——健常者と障害者がおなじ競技で競う上での、公平性について
それぞれのルールの下で競うのだから、競技をする上で力の差があってはいけません。
健常者・障害者の区別をしない競技を設けたとして、公平さは保てるのでしょうか?
想像のおよぶ範囲で、既存の競技を分けてみました。

こうやって分けてみると、競技そのものの統合は、やっぱり難しそうだなぁと思ってしまいました。
でも、車椅子系の競技は、健常者・障害者ミックスでも、できそうな気がします。
現に、車椅子バスケには、健常者が車椅子に乗ってバスケをする人たちの集まりがあります。
それはそれで面白いのかなと思うのは、私だけでしょうか?
——どこまで統合したらいいのだろう?
健常者のオリンピック
身体障害者のパラリンピック
この2つを統合しよう!と言ったのはいいけれど、他にもオリンピック的な位置付けの大会があるのをご存知ですか?
聴覚障害者のデフリンピック
知的障害者のスペシャルオリンピックス
4つの大会とも、名称がなんとなく似ています。
IOC(国際オリンピック委員会)は、オリンピック由来の名称を使うことを、他3大会にだけ許しているそうです。
しかし、デフリンピックとスペシャルオリンピックスの存在を、どれほどの人が認知しているでしょうか。
五輪とパラリンピック以上の、大きな開きがあるように思えてなりません。
パラリンピックとデフリンピックの在り方、私は不思議に思います。
聴覚障害も身体障害の一部と考えると、デフリンピックとして独立している理由が分からないのです。
情報伝達、コミュニケーション手段の違いから、大会運営に支障があったのでしょうか?
大会の発足当初、目指すところに相違があったのでしょうか?
どうやら歴史的背景があるようですが、今に適したカタチはどんな姿なのだろう?と考えてしまいます。
でも、4つも一緒に開催するのは、いろいろな意味で大変だろうなぁというのが、正直なところです。
せめて、身体と知的という障害区分にもとづいて、下記の2つなのかなぁと。
オリンピック+パラリンピック+デフリンピック
スペシャルオリンピックス
う〜ん、考えれば考えるほど、むずかしい問題に思えてきます。
開催期間や運営を1つにする、大会の統合。
じゃあ、どこまで一緒にやれるのか。
障害の有無を超えた、競技の統合。
その意義や、公平性を保ったカタチは見つけられるのか。
みなさまは、どう思いますか?

イラスト:ふくいのりこ
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