《67》 病気を患った人の結婚、出産
- 樋口彩夏
- 2014年6月30日
- 読了時間: 4分
先日、かかりつけの大学病院へ行ってきました。
目的は、普段、飲んでいる痛み止めを処方してもらうこと、麻酔科の定期受診です。
私にとって、麻酔科での診察は、発病当初から続いている楽しみでもあります。
痛みというデリケートな問題に対して、信頼のおける主治医がいるということは、とても幸せなことだと思っています。
待合室で自分の番号が呼ばれるのを待っていると、目の前に座っていたおじいさんが話しかけてきました。
私にとっては毎度おなじみの質問、「まだ若いのに、どうして車いすに乗っているの?」という会話から始まり、主題は「大病を患った人における、結婚と出産の在り方」へ移っていきました。
どうして初対面のおじいさんと、こんな話をしているのだろう? という、モヤモヤはさて置き、そのやり取りをふり返ってみたいと思います。
おじいさんの主張を要約すると、次のとおりです。

穏やかな話し振りではあるけれど、直接的なおじいさんの言葉に対し、返答に迷うことが度々ありました。
答えたくない、という選択肢もあったと思います。
けれど、見ず知らずの人であるからこそ、正直に答えても利害関係がないと考えました。
ありのままを話したことにより、会話は思っていたよりも踏み込んだ内容となったのです。
おじいさんの主張は、私には受け入れがたいものでした。
それも一理あると思える側面もあるけれど、ちょっと違うんじゃない? と腑に落ちない部分も大きかったのです。
「親の立場として、大病を患ったお嫁さんは欲しくない。」
たしかに、おじいさんの言うことは、もっともです。
病気がちな人よりも健康な人がよいと思うのは、誰だって同じでしょう。
でも、誰しもいつ、どうなるのか分からないのが人生です。
早いか遅いかの違いだけで、生きていれば、身体に何かしらの不具合が生じるものです。
それを、既往歴があるというだけで、あらゆる可能性から除外されては、たまったものではありません。
「孫の身体に悪い影響があるのではなかろうか?」
病気に対する厳しい治療をしていたと聞けば、そんな不安もわいてくるかもしれません。
それが根拠のない偏見だとしても、我が子を、孫を思うがゆえ、気を揉むことは当然という見方もできます。
しかし、いわれのない偏見で、苦しんでいる人がいるのも事実です。
病気をした自分を卑下し、恋愛において必要以上に臆病になってしまい、一歩踏み出す勇気が持てないという話も聞きます。
互いに思いを寄せている恋人がいても、相手に嫌われるのが怖くて病気のことを切り出せない、というのは、この典型ではないでしょうか。
これは病気に限ったことではなく、同じような悩みは障害者の間でも話題にのぼります。
相手を思うからこそ、身を引いてしまう……、そんな考えに至ってしまうなんて、悲しいことです。
そもそも、これらは「結婚をしたら元気な赤ちゃんを産む」という子孫繁栄の思いが前提になっているから、
生まれてくる悲しい遠慮なのではないでしょうか。
子孫繁栄も大切なことだけれど、また違う形の幸せを探してもいいんじゃないかと、私は思います。
結婚にしても、子どものことにしても、ひとつの正解を求めるのではなく、多くの選択肢があっても良いはずです。
いろいろな家族のカタチがあって良いし、結婚がすべてでもありません。
そう考えたら、子や孫を想う祖父母世代も、夫婦や独身で過ごす当人たちも、もっと自由になれるように思います。
“子ども”に関しては、血の繋がりだけが親子の絆ではありません。
親と子の間に、血縁を超える愛情があれば、それも“親子”でしょう。
それぞれに合った幸せのカタチを見つけることが、何よりも重要なことです。
どんな繋がりであれ、当事者たちが幸せを感じられるのなら、それで良いのだと思います。
むしろ、それが全てなのではないでしょうか。
おじいさんとの思いがけない会話が、家族のあり方を考えるきっかけをくれました。
幸せって、なんだろう? という問いは、病気や障害の有無に限らず、すべての人が抱いているものでしょう。
ゆっくりと時間をかけて、私なりの幸せのカタチを見つけられたらいいなぁと思います。

イラスト:ふくいのりこ
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