《84》 紅白での「お立ち願いたい!」と神社のバリアフリー化に思う
- 樋口彩夏
- 2015年1月15日
- 読了時間: 4分
仕事始めだった先週は、途方もないほど長く感じた1週間でした。
丸4カ月間の休養を経た仕事復帰は、ずいぶんと身体に堪えたようです。
ひどい腰痛に歯を食いしばり、泣きつかれて眠る夜は孤独そのもの——―。
我慢してはいけない痛みとの区別はついているつもりなので、時間が解決してくれることを静かに待つしかありません。
さてさて、話は変わって、大晦日のことです。
家でのんびりと「NHK紅白歌合戦」を観ながら過ごしていました。
流行りのアイドルの人数の多さに目をしばたたきつつも、趣向をこらした衣装転換には感心しきりです。
出場歌手は大御所から新人まで幅広く、2014年に花を添えた音楽がつぎつぎと流れていきました。
後半の中盤に差しかかったころ、ステージにあがったのはTOKIOです。
ボーカル・長瀬智也さんが“20年に1度のお願い”と、呼びかけた一言がありました。
「ここに居る皆さん全員に、お立ち願いたい!」
ライブさながらに沸き立つ会場を見て、TOKIO20周年の力強さを感じました。
しかし、「あ、私、立てなかった!」と、目の前の現実に気がつきました。
はて、どうしたものか…。
そういえば、過去に同じ場面へ遭遇したことを思い出しました。
あるアーティストのライブへ行ったときのことです。
ライブというものにはじめて行った私は、周囲の熱気に圧倒されていました。
会場は、ほぼオールスタンディング。
座っている私の目線からだと、ステージはおろか、前の人のお尻しか見えません。
総立ちになった観客の中に埋もれてしまいました。
「う〜ん……、座ってよ〜。(泣)」
と言いたくなったけれど、そんなこと言えるはずもなければ、言うべきことでもありません。
ふと周囲を見渡すと、みんな、とっても楽しそう。
観覧するものによっては、お行儀よく観るだけでなく、立ち上がったりして全身で感じたいものもあるはずです。
それを“だれもが平等に見られるように”と規制するのは、間違っているのでしょう。
車いすユーザーをはじめとしたスタンディングを控えたい側が、それなりに楽しめる席を選ぶ努力をするべきだと思います。
これに通ずることが“初詣”にもありました。
神社仏閣は建物の性質上、バリアフリーにはしづらい場所です。
車いすで訪れると、敷居や階段、砂利道など、次々に難所があらわれます。
そんな難所に出くわすたび、遠回りをしたり、まわりの手を借りたりしながら進むことになるのです。
日本庭園などにある飛石も、車いすユーザーにとっては厄介なものと言えるでしょう。
「すべてが平らに舗装されたら、どれだけ行きやすいことか……。」
けれども、“ノー段差”のお寺や神社に魅力を感じるかと問うてみると、はなはだ疑問が残ります。
たとえば、
・敷居を踏まずに、跨いでとおる
・庭園の景観を高めつつ、枯山水などを歩行による浸食から防ぐ、飛石
車いすユーザーにとってのバリア(障壁)である敷居や飛石が、日本建築特有の風情や情緒を創り上げていることを考えると、必ずしもバリアフリーにすることが善とは言えないのではないでしょうか。
昨今では高齢者の増加にともない、神社仏閣のバリアフリー化も見受けられるようになりました。
車いすで難なく行けるようになるのは有り難いけれど、日本建築の良さも残してほしいと、あまのじゃくながらに思います。
「お立ち願いたい」から思いがけず、初詣につながりました。
ライブであれば、スタンディングを規制するのではなく、アーティストのパフォーマンスを最大限に楽しめる場であるべきです。
神社仏閣では、趣を度外視したバリアフリー化に走ることなく、建築様式をはじめとした“それらしさ”を残しつつ、高齢者・障害者対策を考えるべきでしょう。
世の中には“平等”を意識し過ぎるあまりに、行き過ぎてしまった配慮がままあります。
障害の有無などに関係なく、だれもが利用できる場であることも大切ですが、そこここの本来の目的に沿ったものであってほしいと思います。

イラスト:ふくいのりこ
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