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  • 樋口彩夏

《109》 互いの存在が「生きる力」に 日韓の小児がん患者らが交流


 「小児がん」――。子供が発症する、さまざまながんを総称する言葉です。今年4月、日本と韓国の小児がんの患者や家族、医療者などが集まる交流会が韓国・釜山で開かれました。情報や意見などを交換することが目的です。学びの場であることはもちろんですが、国や言葉が違っても、皆小児がんと向き合っている者同士、分かり合える「なにか」が、そこにあります。

イラスト:ふくいのりこ

 毎年、交互にお互いの国を訪れており、今年は9回目の開催です。2泊3日の日程で、病院の視察やシンポジウムなどが行われました。シンポジウムでは、両国の患者や家族、関係者がそれぞれの立場で発表しました。韓国からは約60名、日本からは30名が出席しました。

 【韓国】

 患 者:17歳で骨肉腫を発症した28歳・男性

 家 族:梁山釜山大学校病院、小児がん患者の親の会・代表

 関係者:韓国小児白血病・健康支援局長(病弱児教育関係者)

 【日本】

 患 者:14歳でユーイング肉腫を発症した26歳・女性(←私のことです)

 家 族:久留米大学病院、小児がん患者の親の会(木曜会)の女性

 関係者:(公財)がんの子どもを守る会・ソーシャルワーカー

 患者の立場から話す演者に与えられたお題は、「小児がん経験者として社会になにができるか。経験をどう活かすか」。時間は10分。私は、今の活動に至った背景を発病から振り返るような形でお話しました。アピタルのコラムを書き始めて4年が経ちますが、あまり自身の病歴には触れてこなかったので、当日の発表内容をもとに以下に記します。

 ■ 突然立てなくなり、救急車で搬送

  今から12年前。中学2年だった私は、ブラスバンド部に所属し、毎日元気に過ごしていました。夏の日の朝、突然、足がしびれて立てなくなったのです。今までに感じたことのない激痛。救急車で病院へ搬送されました。さまざまな検査を経て明らかになった病名は、ユーイング肉腫でした。病気の告知を受けたときは、あまりショックを受けませんでした。どうして突然動けなくなってしまったのだろう。原因を早く知りたい。そんな思いだったので、「これだけの大病であれば、この現状は当然かもしれない」と妙に納得しました。病気とどう向き合うか。気持ちはそう切り替わりました。骨盤にできた腫瘍は脊髄の神経を巻き込んでいました。約10cm、握りこぶしほどの大きさです。下半身は麻痺し、排泄機能にも影響を及ぼしていました。治療内容は、化学療法、骨髄移植、重粒子線照射と続き、計1年1ヶ月の入院となりました。

 ■ 「車いす」理由に、高校入学を断られ

 治療を終えて退院したのは、中学3年の秋でした。後遺症によって歩けなくなった私は、車いすでの生活を余儀なくされました。当時、通っていた学校は、車いすの私が復学することを認めてはくれませんでした。その理由は事故の怖れです。たとえば校内を移動するとき。階段を車いすごと抱えておりる途中に、転落したらどうするか。普通だと骨が折れても治りますが、私の場合はもとに戻りません。そうなったら学校としても責任がとれないというわけです。高校でもまた車いすを理由に入学を断られました。

 ただ、学校に行くことだけがすべてとは思いませんでした。通信制の高校に在籍しながら自宅で学習をすることで、ふたたび勉強ができることに喜びを感じていました。

 ■ 「だれも理解してくれない」

 けれども、そう上手くはいかず・・・。治療による晩期合併症が出てきました。排泄障害です。自力で排泄することができなくなったので、自己導尿や排便管理を身につけるために入院しましたが、自分なりにコントロールできるようになるまでには時間がかかりました。うまくいかずに失敗することも多く、次第に外出する自信もなくなり、自宅に引きこもるようになりました。学生らしい生活に近づきはじめていたのに、また逆戻り。気持ちに体調がついてきてくれないというもどかしさから、うつ病になっていたのです。心身ともに不調がつづいて入退院を繰り返しました。17歳から22歳までの5年間は、何度も死を考えるほど、どん底でした。

 心身の変化も大きい中、さまざまな不安がありました。その中でも、どん底の5年間を抜け出すきっかけは、車いすの知り合いができたことでした。小児がんは白血病などの血液腫瘍が多く、肉腫系によって肢体不自由という障害が残る人は少数派です。周囲を見ても車いすになったのは私だけ。動けない辛さや排泄障害の悩みは、私のまわりにいる小児がんの仲間と共有できるものではありませんでした。「だれも理解してくれない」と孤独を感じ、自ら壁を作っていたように思います。そんなとき、脊髄損傷で車いすに乗っている人たちに出会ったときの衝撃は今でも忘れません。車輪を操りながら自在に車いすをこぐ姿は、私にとって大きな希望となりました。車いすで生活をしていく上でのノウハウや排泄障害との向き合い方など、教わったことはたくさんあります。あのときの出会いがなければ、私はうつ病から抜け出せなかったかもしれません。

 ■ きっかけは「院内学級」

 私は今、行政機関で働いています。動機のひとつは政治に関心を持ちはじめたからですが、最初のきっかけは、入院中に体験した院内学級での出来事でした。院内学級は長期療養を強いられる子供たちが学ぶための制度です。この手続きの仕組みには、同じ日本でありながら、地域によって大きな違いが生じています。さらに市役所の障害者福祉課の窓口では、行政職員と利用者が必ずといっていいほど言い争いをしていました。これでは、お互い不幸です。もっと双方にとって良い仕組みがあるのではないか、と思うようになりました。また、役所で働く人の気持ちがわからないまま、当事者の気持ちをぶつけるだけでは解決には至りません。まずは、行政機関の内情を知ろうと思いました。

 就職して約4年。行政サービスや施策の成り立ちが見えてきた一方、行政だけでは変わらないということも理解できるようになりました。行政サービスは法律や法令に基づいているから、そこが変わらないと動きようがないのです。法律をつくるのは政治家です。小児がんの経験者や障害者、同じような経験をしている人たちの代弁ができるようなポジションにつきたい――。そんなことを思うようになりました。みんなが安心して前向きな人生を歩める社会になってほしい。それが私のいまの気持ちです。

 ■ 3つの「情報発信」

 仕事以外の時間では、当事者としての「情報発信」に力を入れています。

 一つ目は、新聞社が運営するデジタルサイトでコラムを連載しています(このアピタルの連載です)。小児がん経験者や車いすユーザーというマイノリティーのことを身近に感じてもらえるように、日常の話題を切り口とした柔らかい雰囲気の記事に、社会への提言を込めるつもりで書いています。連載がはじまって4年3ヶ月の間に、100本以上のコラムを書いてきました。どうしたら読者に伝わるだろうかと、週末のたびに原稿と向き合っています。

 二つ目は、障害や病気などさまざまな生きづらさに焦点を当てたwebマガジン(https://plus-handicap.com/2014/04/3201/)での連載です。当事者しか知り得ないリアルな実情を伝えるのが命題で、私は「車いすユーザー」の視点から記事を書いています。こちらは鋭さを意識し、読者が記事から得た「気づき」をすぐに、行動に移せることを重視しています。

 そして、最後の三つ目は言葉による発信です。自身の闘病体験を語る講演からはじまり、最近では、障害者の視点をいかして企業研修の講師なども務めるようになりました。自分の経験が社会に活かされていることを実感しています。

 ■ がんの支援体制 有識者会議にも出席

 また、今年の3月までは、国(厚生労働省)が企画した「がんと診断された時からの相談支援体制」を考える有識者会議(http://www.jcancer.jp/can-navi/別ウインドウで開きます)に委員として参画していました。若いがん患者の代表として選ばれた責任と意義を真摯に受け止め、この2年間をまっとうしたつもりです。

 こうした活動の最終的な目標は、いつ、誰が、どんな病気や障害をもっても、笑顔で暮らせる日本にすることです。これからも当事者の視点から建設的に社会に伝えることをモットーに、日々を重ねていきたいと思います。

 ■ 患者たちの「後世の希望に」

 「小児がんになる子どもやその家族には、多くの苦痛や悲しみが待ち受けている。完治した僕たちは、後世の希望でありたい」

 韓国から発表をした患者の男性は、そう言っていました。社会へ大きく働きかけるのではなく、小児がんの経験を糧に社会へ貢献するということをミクロ的にとらえ、患者とその家族を助けることが重要だと考えたそうです。その連鎖によって、病気を乗り越えた患者たちも社会の構成員のひとりとして羽ばたけるのではないかと――。小児がんと闘っている子どもや親御さんにとって、治療を終えた先の未来に「明るい姿」を想像できるというだけで、前向きになれるものです。お互いの存在が生きる力につながることを再認識しました。

     ◇

  次回は、小児がん患者の支援をめぐる日本と韓国の違いについて報告します。

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